埋没系女装をめざす、れいの女子的おでかけ日記・・・

きれいな女子に憧れて、女子姿でおでかけするささやかな日記

母のコト。

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写るテレビの画面は、藤井名人の王座戦の対局を伝えていた。母はそれを目を見開いてみていた。わかった見ているのか、光に反応しているだけなのかわからなかったから、目の前で手を降ると、一応こちらを見てくるし、瞬きもするので少し安心した。

イヤホンで音を聴かせてみたけど、音量が小さすぎたからか、さほどの反応はなく、微妙な状況に思えたけど、血圧がかなり低下してしまい、長くはないかもという連絡を受けて病院へ来た頃に比べれば、随分と持ち直しているように見えた。

当初は血圧が下がり続けて、どう見ても危険な感じだったので、妹に急ぎ来るよう呼んだくらい弱っていたから。看護師さん曰く、この血圧で意識があるのは珍しいとのコトで、わたしは母は何かを訴える為に意識を維持していたのかもしれない気がした。

看護師さんがカラダの向きを変えて口内洗浄に来てくださる。わたしも座る位置を変えて、冷たい手を温めようとお布団の下で握りながら話しかけると徐々に反応があるようになった。すでに言葉はうまく発せないようで、でも必死に何か言おうとしてるのはわかるけど、聞き取れはしなかった。呼吸が苦しそうだったから、わたしが口を開けてって開く仕草を一緒に見せると、口を開いては楽な表情を見せたので、それは伝わっていたようだ。

そのうち、目を閉じ出して呼吸の荒い感じが消えてしまった時はドキッとしたけど、今度は寝息を立て出したので、あー母は眠ったのだとわかった。眠った顔をマジマジと見てみる。余りマジマジみる機会はなかったでど、この人年齢の割にシワとか少ないなーって気づく。目尻も頬のシワもないわけじゃないけど、タルミも少ないし、目の下のぷっくりも然程でもないという事実。ここ10年以上、まったくケアもしてないのに、代謝だけで維持してるなんて驚異の肌じゃないかと思ったりした。髪を染めたら20年くらいは若見えする年齢肌だと思ったよ。

妹はまだ到着してなかったので、彼女は眠った状態しか見ていないコトになる。非常に悩ましい状態で判断つきかねたけど、静かに眠ってる母を見てなんとなく今晩は大丈夫かもという気がしてきたので、お家に戻るコトにした。翌朝また来る旨を看護師さんに告げると、一瞬(帰るの?!)って表情をされたけど、もしもの際は連絡するとのコトだった。

けたたましく家の固定電話が鳴る。まさかでもないけど、母の身に何が起きてるかは明白で、ヨロヨロのアタマでなんで固定電話?と考える。まず、枕元のスマホが見つからず、なぜだ?って思うも、必死に探すと何故か毛布の間に紛れてた。病院と妹から着信があり、わたしは就寝前に音量を上げておきながらも、オートスリープモードを解除し忘れていたのだった。まったく迂闊にも程がある。

深夜2時頃、看護師の巡回時に呼吸をしていないことがわかり、電話をくださったらしい。結局、母は一人で静かに多分苦しむこともなく、眠るように逝ってしまったようだ。

帰ったことを激しく後悔したし、緩和病棟でなく普通の病棟だったら子供たちに看取られながら逝けたのではないかと考えて思いは逡巡したけれど、思うことがあって考えるのはやめた。

妹が先に待つ病室に着くと、昨夜と変わらぬ感じで寝ているようにしか見えない安らかな顔をしていた。ただ、呼吸をしていないだけ。腕もまだあたたかく、昨夜わたしが握っていた時と大差ない温もりだった。

深夜に誰も気づかぬ時に呼吸が止まったので、死亡の確認はわたしが着いて家族が揃った時間となるそうで、確認をする当直の医師がやってきたのですが、偶然にも昨年に母が大腿骨を折った際、人工関節を入れた主治医だったコトに、なんか縁を感じたな。

最初の余命宣告で1年以内と言われ、それが数日の間に、数ヶ月、ひと月と最後は1週間という感じになり、面談の度に余命が短くなるというありさまには、正直戸惑いは半端なかった。

腸への詰りだと言われた時は、薬で散らないかなって程度の認識だったけど、その後ステージ4の末期癌と宣告された時は驚きを禁じ得なかった。認知症を患ってからというもの、あんなにストレスで弱っていた内臓も激しく機能を回復させて、頭痛とも無縁となったコトで、もしかして100歳くらいまで生きるんじゃ無いかと思っていたくらい。それがこんな結末になろうとはね。

最後は主治医、看護師さんと転科前の外科の先生まで駆けつけてくださって、見送られて静かに病院を後にしました。この病院、まだ診療所だった時代から数えれば50年以上お世話になったことになるね。あー、ホントいろいろ大変だったね・・・。

余命が数ヶ月と短くなった時は、年明けの誕生日くらい迎えれないかなとか思ったりもしたけど、自宅に帰ってから、母の好きな春とか秋のこの季節の方が幸せかなって思ったりもしていた。だって、寒い時期に亡くなるなんて冷え性の母が可哀想だなってさ。

世間に出しても恥ずかしく無いようにと、とても厳しい母だった。甘える妹に比べて、わたしはなんで自分ばかりと不平を持った事も当然あったけど、母はオトコは社会の荒波に揉まれて一家を背負って生きていくんだから、厳しいのは当然なのだとわたしに言った。

おかげで多少の歪みも持ちながら、お箸もキチンと持てるし、正座もちゃんと出来るし、人ともキチンと話せて文章も書けるようには育った。ドラマティックに「あなたの子供で良かったです」みたいな感じではないけれど、そこは感謝しなきゃと改めて思う。

幼少の頃、叔父の元に養女にだされ、厳しい祖父の元で苦労して苦労して、好きな人との結婚も許されず、母への愛情も最初だけだったココロのない父と結婚し、40代後半に度重なる大病を患って生きる希望も失い、心病んでひっそりと山に紛れてしまおうと家を出て行った事もあって、それでもわたし達の顔が浮かんで戻ってきた事もあった。その後も自ら命を断とうとした事もあり、ムシの知らせのように偶然にわたしが見つけて蘇生した事もあった。その時、母は助けてもらった命だから、お前が見つけてくれたのも運命で、妹だったら泣くだけで何もできなかったと思うので死んでいただろう。もう、こんなことは絶対にしないって涙ながら言ってくれた事があった。

その後、還暦近づいたあたりから、徐々に穏やかさを取り戻して時はひどく安心したものです。

とにかく、いろいろあったから、最後くらいは苦しまずに逝って欲しいとうのがわたしの願望だったので、それだけが救いだったかな。

雨の日曜日、実母のお墓に行き、とにかく苦しまないように助けてあげてとお願いに行った。母には養父だけど、わたしにとってもじいちゃんだから、仏前で祈ってこっちもお願いした。キライだった父にも、なんとかしろと叫んでみた。他にもわたしの知る天に召された人の全て願ってみたのです。そのおかげかどうかわからないけど、みんなの助けはあったのだと信じたいです。すごく合理的な思考するくせに、非科学的なモノに縋るコトもあるわたしです。

わたしはこんな感じになってしまって、もし母が認知を患ってない状態で知ったらさぞかし失意のどん底の気分だったろうと思うとココロが痛い。どっかの記事にも記しましたが、実家にいる頃、クローゼットに女性の下着や服を見つけた時のショックは計り知れなかったようで、育て方を間違ってしまったというような手紙がこっそり忍ばせてあったくらいだから。

理解して欲しいとか思わなかったけど、悲しませたことの罪悪感はかなりあった。なので、棺に写真を入れてカムアウトみたいな事も考えたけど、多分これはやらない方がいいかな。そのうち墓前に立った時、母はなんて思うんだろうかって、じいちゃんは何度も見てるから、予め伝えたりするんだろうかってとりとめなく考えたりする。

こんなことブログで記すつもりはなかった。でも、オトコのわたしの存在なくして「ながつきれい」は存在しないという、ふたつのココロがあるわけだから、日記に残しておくコトにした。

非公開でもいいようなコトだけど、感情的に今は上げておくコトにしたのです。

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